■1964年の衝撃
「移籍金」は、古くからサッカーを取り巻く話題のひとつだった。1964年の東京オリンピックが終わったとき、日本の新聞各紙は「20万ドルの足」という話題で沸いた。日本代表のFWとして大活躍した杉山隆一に、南米のクラブからこの額でのオファーがあったというのだ。当時のレートにすると7200万円。現代のファンはたいした額ではないと思うかもしれないが、プロ野球で大きな話題となった長島茂雄と読売ジャイアンツとの「契約金」3000万円(1958年)がまだ人びとの記憶に鮮やかなころ、日本ではまだアマチュアしかいなかったサッカー選手がその「倍」というのが日本のメディアを驚かせたのだ。
ただ実際のところは、南米のクラブから問い合わせはあったようだが、「20万ドル」という具体的なオファーがあったわけではなかったらしい。当時の日本代表チームのコーチで、チームの渉外係のような役割も担っていた岡野俊一郎さんが、サッカーの世界的な人気と地位の高さをPRするために金額を勘案してつくった話らしい。
しかし実際にこんなオファーがあったとして、杉山が移籍を希望したとしても、さまざまなところで大いに困ったことだろう。当時の彼の所属先は明治大学であり、当然アマチュアである。海外からサッカー部所属の学生の「移籍金」として7200万円もの大金が大学あてに送られてきても、受け取ることなどできなかっただろう。
実際、同じようなことが、1977年に日本サッカーリーグの古河電工からドイツ・ブンデスリーガの1FCケルンに移籍した奥寺康彦のときにもあったらしい。社員によるアマチュアチームである古河電工サッカー部には、ケルンからなにがしかの「移籍金」が支払われることになったのだが、「受け取る筋合いはない」という会社の姿勢に、間に立った人びとは困り果ててしまったという。