■日本での芝生の変化
1985年の3月、国立競技場で行われたワールドカップ予選は、大雨であちこちに水たまりができるといった状態で、暖地型の芝は枯れたままで用をなさず、選手たちはどろんこになった。このピッチが北朝鮮得意のショートパスを妨げ、なおかつゴールに向かって送られたパスが水たまりで止まることを読んで走り込んだFW原博実が貴重な決勝点を挙げた。
この試合から31年も前、1964年の東京オリンピック後、ドイツに戻るデットマール・クラマー・コーチが日本のサッカーのための「4つの提言」をした。そのひとつが「リーグ戦の創設」であり、翌年の日本サッカーリーグ誕生、さらに後のJリーグ誕生につながることはよく知られている。しかしその他の「提言」のなかに「芝生のグラウンドを維持すること」という項目があったことは、意外に忘れられているのではないか。
1964年のオリンピックのために、東京を中心に芝生のグラウンドがいくつか整備された。しかし31年後の国立競技場で見るように、日本サッカーリーグ時代には常緑の芝生グラウンドの普及はまったく進まなかった。何より、夏の暑さに耐える「暖地型」の芝生ばかりだった日本のグラウンドでは、冬季にも緑を保つことは不可能と思われていたのである。
その「常識」が大きく変わったのが1989年の国立競技場の「オーバーシーディング」であり、常緑のピッチをシンボルとしたJリーグの影響だった。
Jリーグは「ミスター・ピッチ」と呼ばれるキャラクターをつくり、日本のスポーツ界に新しい「芝生文化」をもたらした。その結果、1990年代、年間を通じて美しい緑に輝くピッチをもつスタジアムが日本中に誕生した。そして当時の川淵三郎チェアマンは「芝生の上で育まれる豊かな人間性」に着目し、学校の校庭を芝生にする運動まで推し進めた。