■エティハド航空の誕生前

 カタールは1971年に英国から独立した国ですが、現在のような発展を始めるのは1995年にアル・サニ家の第6代首長ハリファが息子のハマドによって追放されてからのことです。1993年当時、UAEのドバイ空港はすでに国際的なハブとなっていましたが、カタールのドーハ空港はまだまだローカル空港といった雰囲気でした。

 当時は日本から中東への直行便はありませんでしたから、東南アジア系の航空会社で行くか、東南アジアで中東最大のガルフ航空に乗り換えて行くのが普通でした。アジア最終予選の時はマレーシア航空でドバイまで行って、そこでガルフ航空に乗り換えてドーハ入りしました。「ガルフ航空」はUAEのアブダビ首長国とバーレーン、オマーンが共同出資で設立した中東最大の航空会社。ドバイ首長国のエミレーツはまだ新興企業でした。

その後、アブダビは独自に「エティハド航空」を設立。「ガルフ」はバーレーンだけの会社として存続しています。

 ところが、ドーハ空港に到着してみると、そこには大きな文字で「カタール」と書かれた機体が存在したので、「ああ、『カタール航空』なんていうのがちゃんとあるんだ」と感心した記憶があります。今は世界に冠たる巨大航空会社となったカタール航空ですが、調べてみると正式な設立は1993年11月とありますから(現在の体制になったのは1997年)、“あの時”はまだ準備の最終段階だったのでしょう。

 カタールの街も小さなものでした。旧市街から海(ウェストベイ)を隔てた対岸の湾岸地区には今では高層ビルが立ち並んでいますが、1993年当時は選手団が泊まっていたシェラトン・ホテルだけが蜃気楼のように輝いていました。

 ハリファ国際スタジアムは、現在は有名なトレーニング施設であるアスパイア・センターや体育館など多くのスポーツ施設、そして「ヴィラッジョ」という大きなショッピングモールなどに囲まれています。しかし、1993年当時は砂漠の真ん中にポツンと建っており、屋根もメインスタンドの一部に付いているだけの、シンプル極まりない陸上競技場でした。

 アジア最終予選は大波に翻弄されるような展開となりました。初戦はサウジアラビア相手にガチガチの試合でスコアレスドロー。2戦目はイランに敗れて1分1敗の最悪のスタートとなりましたが、北朝鮮に3対0と解消すると、さらに韓国にも勝って日本は一気に首位に立って「最後のイラク戦に勝てば予選突破」という状況になったのです。そして、イラク戦はあのアディショナルタイムの同点ゴールによって引き分けに終わり、ワールドカップ初出場の夢は閉ざされてしまいました。

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