■毎週「試験」を受けている審判員

 かつては、「判定は神聖不可侵」のように思われ、議論することさえ許されない雰囲気があった。その根拠は、いまもルール第5条にある「プレーに関する事実についての主審の決定は、得点となったかどうか、または試合結果を含め最終である」という文言である。主審が決定したら変えようがないのだから、論議も必要はないというのだ。

 しかしレフェリーによる判定もサッカーの一部であり、サッカーをより良いものにしていくためには、審判員や審判界だけでなく、多くの人の考えや知恵を寄せ合うことが必要だ。ルール解釈や判定についてオープンに議論できるようになったのは、間違いなく進歩だ。

 トップクラスのレフェリーがどのようにその資格を取得し、また、重要な試合にアポイントされるためにどのような評価を受け続けなければならないのか、詳細に知れば、誰もが驚くだろう。どの試合にも審判員の動きや判定の正しさなどを細かく採点する「アセッサー」がいる。そしてさまざまな項目について10点満点で採点する。毎週試験を受けているようなものだ。

「ミスは選手の権利だ」とイビチャ・オシムは語った。しかし審判員はミスをすればアセッサーによって厳しい点数をつけられ、一定期間を通じての平均点が悪ければ降格(J1担当からJ2担当へ、あるいは1級から2級へなど)を言い渡される。たくさんのミスをしてもひとつの見事なゴールを決めればヒーローと称えられる選手より、はるかに厳しい覚悟でピッチに立たなければならないのが、審判員なのだ。

 懸命に走り、見落としがないようにポジショニングやプレーを見る角度を工夫し、できうる限りの努力を払っても、たった1回、選手が視線を遮るように動くなど、不可抗力といえるような状況で決定的な場面を見逃したら、「大誤審」と叩かれる。現代では、ときにクラブのサポーターからのSNSでのバッシング、ひどいときには本人だけでなく家族への脅迫という卑劣な行為の犠牲になることさえある。 

 審判員たちにとって、名前も顔も出されてひとつの判定を根掘り葉掘り議論されるのが楽しいことであるはずがない。それでも受け入れているのは、サッカーという競技をより良くすること、ルールやレフェリングについての理解が進むことによって、サッカーをよりみんなが楽しめるにすることができると信じているからに違いない。

 そうしたなかで、さらに「試合後の会見」などというのを持ち出すのは、少し気が引ける。しかしそれが良い形で生かされるなら、検討に値するのではないかと、私は考えている。

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