後藤健生の「蹴球放浪記」連載第66回「後藤健生、“放浪”のはじまり」の巻(2)日本サッカー開花のきっかけは64年東京五輪の画像
東京オリンピックの入場券。よく出来たデザインです 提供/後藤健生
当時のJSLの入場券と寄付金付き切手
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このレアな存在である蹴球放浪者は、いったいどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか。その果てしないサッカー旅は、いったいいつ、どこで、どういう理由で始まったのだろうか。今回は、ついにその謎のベールがはがされる。さあ、東西、東西~。

■何が何だか分からなかったサッカー観戦初体験

 観客数は6万5793人となっていますが、おそらくそのほとんどが動員された小中高校生たちだったのでしょう。

 試合は、東京、メキシコの2大会を連覇するハンガリーが6対0で圧勝。その6ゴールすべてをフェレンツ・ベネが決めるという凄い試合だったのですが、そんなことは当時の僕はまったく知りませんでした。ご承知のようにベネは1966年のワールドカップでも大活躍するワールドクラスの選手です。

 なにしろ、子供たちはサッカーというものを知りませんでした。「サッカーに行く」ということが分かった時には「サッカーって何だ?」と学校に置いてあった百科事典(懐かしい響き!)で調べたりしたものでした。

 僕は父がサッカー経験者だったので、年に1度か2度くらいあるテレビ中継を父親が見ていましたからある程度は知っていましたが、とにかくスタジアムに足を踏み入れるのは初めてでした。

 真っ赤なアンツーカーの陸上競技用のトラック。そして、その中央の緑の鮮やかな芝生の美しさは印象的でしたが、バックスタンド上段やや北側の電光掲示板寄りの席からは選手たちの姿は小さくしか見えません。サッカー自体をよく知らないのでは何が何だか分からないのも無理はありません。

 動員されて無理やり連れてこられた小学生たちは、試合そっちのけでワイワイガヤガヤと騒いでいたのですから、ベネに対しては失礼極まりないことでした。

PHOTO GALLERY 当時のJSLの入場券と寄付金付き切手
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