■当時、日本はタイの情報をほとんど知らなかった
当時のオリンピックにはアジア諸国からはフル代表が出場していた。日本代表にとってはオリンピックこそが最大の目標。アジア枠が「1」しかなかったワールドカップ予選突破はほぼ不可能。ワールドカップ予選で若手に経験を積ませて、オリンピック予選突破を狙う。それが日本の方針だった。
さて、ロサンゼルス五輪予選。なんとか最終予選に駒を進めた森孝慈監督率いる日本代表は力を付けてきていた(ように思えた)。4月の予選を前に1月にはブラジルの名門コリンチャンスが来日。日本は2勝1敗と勝ち越したのだ。真夏のブラジルからやって来たクラブチームと雪の中で戦って勝ったからといって、何も保証されるわけではないのだが……。
シンガポールでのセントラル方式の予選。日本はタイ、マレーシア、イラク、カタールの順で戦うことになった。
「中東勢は強そうだが、東南アジアには勝てるだろう。対戦順はラッキー」というのが、日本側の受け止めだった。
「タイには勝てる」と誰もが思っていた。その根拠は「タイは内弁慶だから」というのだ。「バンコクで戦えば、タイは手強いが中立地のシンガポールでなら勝てる」。ほとんど根拠もない楽観論だ。
ただ、「タイには若くて優秀なFWがいる。警戒が必要だ」という情報は入っていた。だが、そのFWがどのようなタイプなのかという情報はまったくなかったのだ。今から考えると信じられないことだが、アマチュア時代の日本代表はその程度の情報しかないまま、国際試合を戦っていたのだ。