誰が「中止」「再延期」を言い出すのか。東京オリンピック・パラリンピックの通常開催は不可能であり、無観客であっても開催が難しそうだということは、スポーツ関係者も政府関係者も当然分かっているはずだ。ところが組織委員会の森喜朗会長は先日、「どんな形になろうと、必ずやる」と明言した。政府からもスポーツ界からも異議は出されていない——。
■「スポーツの意義」ばかり強調しても
スポーツというものには、もちろん大きな社会的な意義がある。オリンピックやワールドカップような大規模なイベントは社会が、あるいは世界が一体化する契機にもなる。多くの人たちに元気を与える効果もあるのは間違いない。
だが、それは平時でのことだ。現在のように、世界がパンデミックに直面している時に一方的に「スポーツの意義」だけを強調しても仕方がない。
もちろん、「こんな状況だから“こそ”大会を開催することで世界の人々に勇気を与えることができる」という考えも成立する。だが、一方で「生命の危険に直面している人もおり、生活が立ち行かなくなってしまう人たちも多い中、すべての資源を感染収束に振り向けるべきであって、オリンピックなど行うべきではない」という考えも成り立つ。
どちらが正しくて、どちらが間違っているというわけではない。
もちろん、僕もスポーツ関係の仕事をさせていただいているわけだし、東京大会には大きな関心を抱いている。
また、個人的にも東京オリンピックをぜひ観戦したいという気持ちは強い。
なぜなら、僕は1964年の大会も観戦しているからだ(小学校6年生だった僕は、サッカーとホッケーを観戦した)。自分が生まれ育った都市でオリンピックが2度も開催されて、それを2度とも生で観戦するというのは誰にでもできることではない。僕が生まれるのがもう10年遅かったら、57年前の大会を観戦することはできなかっただろうし、逆にもう15年早く生まれていたら、2021年に生きているとは限らないし、命を長らえていたとしても生観戦は厳しいかもしれない……。
だから、ぜひ観戦したいのはヤマヤマだが、それは個人のわがままとしか言えない。
世の中の人々がすべてスポーツ好き、オリンピック好きなわけではない。無関心な人も、スポーツ嫌いな人も多いはずだ。とくにオリンピックやワールドカップのような大規模イベントには反感を持つ人も多い。平常時の大会でも、オリンピックやワールドカップの開催期間中は街を離れて静かな土地で過ごす人もたくさんいる。そんな人たちに対して「スポーツの意義」や「オリンピック開催の意義」を振りかざして東京大会を強行しても、も心に響かないどころか、反感を買ってしまうかもしれないではないか。
そのような状況では、開催を目指すすべての関係機関のトップはどちらかに偏った行動をとるべきではないだろう。積極論、懐疑論の両者を勘案しながら最終的に責任ある結論を導かなければいけないはずだ。
だが、森会長以外にも、スポーツ関係のトップにいる人たちからは主戦論ばかりが聞こえてくる。