ADIOS A D10S!「マラドーナの時代」の悦び(3)ブラジルを葬った“遅いドリブル” の画像
1986年のディエゴ・マラドーナ 写真:Colorsport/アフロ

※第2回はこちらから

「神の子」とそのプレーを称えられたディエゴ・マラドーナが亡くなった。2020年11月25日のことだ。1960年10月30日生まれの「神の子」は、60歳になったばかりだった。1980年代はマラドーナこそが世界のサッカーの中心だった。彼はどんなプレーをし、人びとはどのように彼を迎え入れたのか。数多くの試合を現地観戦してきた筆者が、マラドーナの真実を綴る。

■宿敵ブラジルとの死闘

 世界は空間とともに時間によっても作られている。現代の物理学によれば、空間と時間は同じものだ。それなら、優れた選手は空間だけでなく時間をも把握しなければならない。

 今から10秒後、20秒後に敵味方の選手の配置がどのように変わっていくか。それを他の選手以上に把握しているからこそマラドーナのプレーは見る者の意表を突くものになる。

 だが、もっと長い時間、つまりキックオフの瞬間からタイムアップまで、90分の時間的経過もマラドーナは意識して戦っているかのようにも見える。

 どの時間帯に攻めに出るべきか、どの時間帯は我慢すべきなのか。実際のゲームの流れを感じ取って対応するのではなく、予め90分間の戦いをプランニングして戦うのだ。

 サッカーの世界でのライバル、ブラジルを見事に出し抜いたのが、1990年イタリア・ワールドカップのラウンド16だった。

 南米大陸では、アルゼンチンとウルグアイがサッカー先進国であり、ブラジルはあくまでも後発国だった。1930年にはウルグアイで第1回ワールドカップが開催され、決勝戦はラプラタ河両岸のウルグアイとアルゼンチンの戦いとなり、ウルグアイが4対2で勝利して初代のワールドチャンピオンとなった。そして、1940年代にはアルゼンチン・サッカーが黄金時代を迎える。ブラジルは、アルゼンチンの強力な攻撃に対応するために4バックを始めたと言われている。だが、ヨーロッパ大陸で第2次世界大戦が勃発したため、1940年代にはワールドカップは一度も開かれなかった。

 そして、戦争が終わるとブラジルが台頭してくる。

 多くのアフリカ系プレーヤーが参入することによってブラジルはアルゼンチンを抜き、世界の強豪として駆け上がっていった。その時以来、アルゼンチン人にとってブラジルは永遠のライバルとなった。

 1990年大会で、アルゼンチンは開幕戦でカメルーンに敗れ、その後も苦しい戦いを続けながら「グループ3位」として何とか決勝トーナメントにまで辿り着いた。頼みのマラドーナも膝や踵に故障を抱え、万全からは程遠い状態だった。

 一方、ブラジルの方は3戦全勝と順調に決勝トーナメントにコマを進めてきた。だが、ラウンド16で待ち構えていたのが宿敵アルゼンチンだったのだから、ブラジルにとっては皮肉な運命だった。

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