■ゆっくりしたドリブルで最大の効果を
トリノのスタディオ・デッレアルピで行われた試合でも、キックオフ直後からブラジルが完全にゲームを支配した。カレッカやミューレルのシュートが再三、アルゼンチン・ゴールを脅かす。だが、GKのセルヒオ・ゴイコチェアのスーパーセーブに阻まれ、またクロスバーやゴールポストに当たって、ブラジルはどうしてもゴールを決められなかった。
マラドーナは満身創痍で戦っており、ほとんどプレーに絡むこともなくなっていた。
だが、残り時間が10分を切った時、突然マラドーナが自陣からドリブルを開始する。
その時の脚の状態のせいだったのだろうか。それとも、意図的だったのか、ゆっくりしたドリブルだった。そのため、ブラジルのDFがマラドーナを取り囲むような状態になった。だが、相手がマラドーナということもあって、4人のDFは誰もチャレンジに行くことができず、ずるずるとそのまま下がっていった。こうして、マラドーナは相手DFを引き連れながらブラジル陣内に進入。そして、4人に囲まれたままクラウディオ・カニーヒアにパスを通し、フリーだったカニーヒアは難なくブラジル・ゴールにボールを流し込んだ。
ゆっくりしたドリブルで4人を引き付けて、カニーヒアをフリーにしたマラドーナ。痛みを抱えた脚では5人抜きなどは不可能だったから、それがその瞬間にできる最善の選択だった。
1点を奪われたブラジルがギアチェンジして同点ゴールを狙うにしても、時間は10分しか残っていなかった。もし、カニーヒアのゴールが実際よりも10分早かったとしたら、残りの20分間をアルゼンチンは守りきれたかどうか……。
まさに「勝負するならこのタイミング」という時間を図ったようなマラドーナのプレーだった。まるで、90分を通してゲームを見通していて、その時のために80分間“死んだふり”をしながら待っていたかのようだった。
マラドーナは「神の子」と呼ばれる。
それほど崇拝され、敬愛されているということなのだろうが、僕にはあれほど完全に時間と空間を把握し尽くして、それを自由に操ったマラドーナは本当に神のような存在であるとしか思えない。