「神の子」とそのプレーを称えられたディエゴ・マラドーナが亡くなった。2020年11月25日のことだ。1960年10月30日生まれの「神の子」は、60歳になったばかりだった。1980年代はマラドーナこそが世界のサッカーの中心だった。彼はどんなプレーをし、人びとはどのように彼を迎え入れたのか。数多くの試合を現地観戦してきた筆者が、マラドーナの真実を綴る。
■「神の手」ゴールを眼の前で
マラドーナは1982年のワールドカップ・スペイン大会から1994年のアメリカ大会まで、4度のワールドカップに出場している。僕は、そのスペイン大会の開幕戦(前回優勝のアルゼンチンが伏兵のベルギーに敗れた)を観戦してから、数多くの試合を現地観戦してきた。とくに「マラドーナのための大会だった」と言われた1986年メキシコ大会では、アルゼンチン代表の試合を全試合観戦した。
「マラドーナ死去」のニュースとともに日本でも何度もその映像が流されたあのイングランド戦も、ちょうどマラドーナが2ゴールを決めたサイドのペナルティエリア付近の最高の位置から観戦していた。
だから、1点目の「神の手」の場面でもボールが手に当たるのがはっきり見えたし、僕の周囲のアルゼンチン人記者たちも「ああ、あれはハンドだ」と当然のように言っていた。
意識的に手に当ててボールをゴールに入れておいて、レフェリーがゴールを取り消せないように味方選手を呼んで急いで歓喜の輪を作ってしまう……。英国的なフェアプレーの精神からは絶対に許せない行為だ。いや、英国でなくても、ヨーロッパでも、そして日本でも同様だろう。
だが、アルゼンチン的な考え方に立てば、それも(レフェリーの目を盗んで相手を出し抜くことも)ゲームの一種なのだ。
正々堂々と戦うこと、あるいは潔く敗れることは英国的な「フェアプレー」の精神だ。チームの総合力によって相手を完膚なきまでに叩き潰すこと(たとえば、ホームチームに“7失点”の屈辱を与えること)はドイツ人にとっての理想のゲームなのだろう。
だが、アルゼンチン的な感覚としては、強者を出し抜いて勝つことこそが最高の快感を呼び起こすのだ。
ヨーロッパ(スペイン帝国)の支配をはねのけて19世紀の初めに共和制国家として独立を達成したものの、その後英国の経済的な支配下に置かれ、20世紀前半にはごく短い繁栄の時代を経験し、首都のブエノスアイレスは「南米のパリ」と称されたものの、その後は経済が停滞。南米大陸のライバルであるブラジルの後塵を拝しているのが現状で、白人が主役でかつて経済的な繁栄を経験したことによって南米諸国の中でもちょっと疎まれてもいる……。
そんなアルゼンチンだからこそ、“世界”を出し抜いて勝利することに快感を感じるのであろう。
まして、その相手が4年前のマルビナス戦争(フォークランド紛争)で数百人の同胞の生命を奪った英国であればなおさらだ。
もちろん、この戦争はアルゼンチンの軍事政権が引き起こした無謀な戦争だったし、アルゼンチン人の多くは軍事政権を支持しているわけではなかった。だが、ほとんどのアルゼンチン国民にとってはマルビナス諸島(フォークランド諸島)はアルゼンチンの「固有の領土」なのである。