■バイエルン・ミュンヘンでプレーする計画も
1944年4月15日に京都で生まれた釜本は、1960年代から1984年にかけて早稲田大学、ヤンマーディーゼル、そして日本代表で活躍した。ヤンマーの選手、後に監督兼選手として日本サッカーリーグ(JSL)で251試合に出場して202点(80.1%)を記録、プレーした17シーズンのうち7シーズンで得点王となっている。何より、JSL時代全27シーズンで釜本に次ぐ通算得点記録が85点であるということを知れば、彼がいかに隔絶したストライカーであったかがわかるだろう。通算シーズン数がJSLとほぼ同じで、年間の試合数がJSL時代の2倍以上にもなるJリーグ(J1)でさえ、現時点の最多通算得点は大久保嘉人の185点(17シーズン、448試合=41.3%)なのである。
日本代表では、釜本の時代にはクラブチームとの対戦が多く、Aマッチは限られていた。近年は100試合を超す選手も少なくないが、釜本のAマッチ出場数は76試合。その試合数で75点を記録している。こちらも、釜本に次ぐのは三浦知良(カズ)の55得点(89試合)と、2位以下を大きく大きく引き離しているのだ。
メキシコ・オリンピック(1968年)での得点王も特筆される。この大会で日本は3位決定戦まで6試合を戦って9ゴールを記録、そのうち7点が釜本(残りの2点はともに釜本のアシストにより渡辺正が記録)だった。日本は常時5人のDFを配して2人のMFとともに守備を固め、左ウイングの杉山隆一がロングパスを追ったり自らドリブルで進んでチャンスをつくり、そこからのボールを釜本が決めるという非常にシンプルなサッカーをした。釜本の決定力あっての銅メダルだった。
当時24歳。釜本は自己のサッカーを完成させ、まさに世界的な選手になっていた。前年までは、大型選手にありがちな動きの緩慢さが目立っていた。すでに自分の型はもっていたが、ボールを止め、ターンして、打つという3プレーがひとつひとつ分かれていたのだ。しかしこの年の1月から3月にかけて単身で西ドイツに短期留学、ザールブリュッケンのスポーツシューレで州主任コーチのユップ・デアバル(後に西ドイツ代表監督)に鍛えられ、まったく別の選手になった。プレーが流れるように一連のものとなり、スピード感が格段に増したのだ。
メキシコ・オリンピック後にはブラジル・サッカー協会創立50周年を祝う記念試合の世界選抜に推挙された。そしてオリンピックで釜本のプレーを目の当たりにしたメキシコはもちろん、欧州や南米のプロクラブから多数のオファーも受けた。彼の恩師であるデットマール・クラマーが計画したように、西ドイツのトップチーム、たとえばバイエルン・ミュンヘンでプレーしていたら、おそらく当時世界最高レベルにあったブンデスリーガのトップスターのひとりになっていただろう。間違いなく、釜本は「ワールドクラス」の選手だった。
釜本の後、Jリーグ時代になって、世界のトップリーグで活躍したアタッカーは少なくない。中田英寿をパイオニアに、小野伸二、中村俊輔、香川真司、本田圭佑、大迫勇也、南野拓実……。しかし私にとって、「日本サッカー史上最高の選手」はいまも釜本なのだ。時代を超えてサッカー選手を比較するのはあまりフェアではないかもしれないが、中田以降を見ても、「ワールドクラス」と言えるまでの選手はいない。日本サッカー史上、「ワールドクラス」は釜本ただひとりなのである。