この日、日本代表は、イングランドから夏期休暇代わりにやってきたトットナム・ホットスパーを4―0で下し、キリンカップで初優勝を果たした。そして国立競技場のバックスタンド中央には20人ばかりの若者が集まり、試合終盤に「オレー、オーラ、オレー、オーラ」と声を合わせて歌ったのだ。欧州のサッカーのようなサポーターになろうという「大志」を抱いてスタジアムにやってきたわけではないだろう。カズ、ラモスといった「プロそのもの」の選手たちが躍動し、次々と突破し、相手ゴールを陥れていくのに、これまでにない興奮を抑えきれなかったに違いない。その興奮が、彼らを声を合わせて歌うという行動に結びつけたのだ。
だがそれはJSLの試合には広まらなかった。1992年3月22日日曜日、最終シーズンのJSLはすでに前節に読売クラブ優勝が決まっていたが、東京の国立競技場で行われた読売クラブ対日産自動車(現在の横浜F・マリノス)には6万人の観客が押しかけた。足音近づくJリーグへの期待は、すでにこの時点で爆発寸前だった。
だがサポーターはいなかった。読売の「サンバ隊」はいつも以上に人数が多かったし、日産はお家芸の「チアリーダー」を繰り出したが、自然発生的な歌声は聞かれなかった。
「不特定多数の人が声を合わせて歌う」。それは、Jリーグ誕生前の日本の文化にはない行為だった。「応援団長」の指揮下、応援団員の笛や指示に合わせて拍手したり、校歌などを歌う行為はあった。しかし多くの人が自発的に、自然発生的に歌う「サポーター」は、日本のどのスポーツにもなかったのだ。
■「なぜサポーターになったのか」
そして突然、同時多発的にサポーターが誕生する。1992年9月5日、Jリーグ初の公式戦として「ナビスコカップ(現在のルヴァンカップ)」5試合が行われた。水戸、大宮、名古屋、神戸、そして広島という遠く離れた会場で、若いファンが集まり、まるで打ち合わせたかのように歌を歌い始めたのだ。
やがて各クラブにサポーターのリーダーが現れ、そのもとに数百人、数千人の若者が集まって熱気にあふれるサポーター活動を展開するようになる。
「なぜサポーターになったのか」
ある日、私はひとりのサポーターを捕まえて聞いた。答えは明瞭だった。
「プロだからです。プロのサッカーなら、サポーターがいて当然じゃないですか」
理屈も何もなかった。
Jリーグの各クラブは、何とかサポーターのいるスタジアムを実現しようとアイデアをしぼり、いろいろな策を講じていたのだが、そんな悩みは、プロとしての試合を始めた瞬間、一瞬にして霧散した。
ただサッカーを楽しみたいとスタジアムにやってきた人びとも、サポーターの歌や旗の波を楽しんだ。試合には勝ちも負けもあるが、サポーターたちの歌声は心に響き、カラフルなスタンドはどんな試合でも心を躍らせてくれた。サポーターは入場料を支払う「観客」だった。しかしその観客が、さらに多くの観客をスタジアムに引きつけたのだ。