――収入を増やすにはさらなるスポンサーを獲得したい。そのために大会方式を変更したものと誤解していました。

村井 確かにそれもあります。このままいくと原資が底をつき、例えばデジタル戦略や若手の育成といったところに対する投資ができなくなります。このまま行くとJリーグは危険水域に入るという危機感から、大きなイノベーションに舵を切りました。そういった転換期にも変わらずにご支援くださる既存のパートナーの皆さんや、こういうタイミングだからこそと思いを汲んでくださった新規のスポンサー、コロプラさん、ルートインさん、ECCさんもそうですし、明治安田生命さんほか数多くのパートナーにJリーグは支えられています。今までは代理店に赤字を押し付け、代理店がずっと赤字を肩代わりしてくれていた。それでは続くわけがないじゃないですか。彼らだって赤字を持ち続けていては、何のために一緒にやっているのだということになるでしょう。Jリーグ自身がきちんと内外に対してJリーグを語り、スポンサーを獲得して貸し借りのない世界に移行するというのが経営の根幹です。

木之本 そういう観点から村井さんにはモノを発言して欲しいな。サッカーファンに夢を与えるようなことをJリーグはやっているんだと。使命ですよね。52クラブの総理なんですから自信を持って、自分らのやっていることを広くあまねく伝えて欲しい。村井さんとはよく話しているけど、今日は初めて聞く話ばかりだな。

村井 いつもは早目に飲みに行ってしまいますからね(笑)。

※第4回に続く

(この記事は2015年5月9日に発行された『サッカー批評74』(双葉社)に掲載されたものです)

木之本興三
1949年1月8日、千葉県千葉市生まれ。県立千葉高から東京教育大学を経て古河電工に入社。大学時代は主将を務め、インカレなどで優勝して将来を嘱望されたが、26歳の時にグッドパスチャー症候群を発症し腎臓を摘出。引退後はJSL事務長、総務主事を務め、日本サッカーのプロ化に尽力した。1993年のJリーグ発足後は理事や関連会社の社長を兼務。2002年の日韓W杯では日本代表の団長を務めたが、大会後にバージャー病を発症し、両足を膝の上から切断する大手術を受けた。2003年にJリーグを退職後は㈱エス・シー・エス代表取締役、アブレイズ千葉SC代表を務めるなどサッカー界に貢献。2017年1月15日永眠。(※2020年4月追記)
村井 満
1959年8月2日、埼玉県川越市生まれ。県立浦和高時代はGKとして活躍し、早稲田大学を卒業後は日本リクルートセンター(現リクルート)に入社。2000年に人事担当の執行役員に就任。2004年に本社執行役員兼務でリクルートエイブリック(後のリクルートエージェント)代表取締役社長に就任し、2011年まで社長を務めた。2008年にJリーグ理事に選任。2014年1月31日に第5代Jリーグチェアマンに就任した。J1リーグの2ステージ+チャンピオンシップ制導入やJ1とJ2クラブの財政健全化を推し進めつつ、自らも積極的な営業から新規スポンサーを獲得してJリーグの経営立て直しと、多忙な日々を送っている。
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