(この記事は2015年10月28日に発行された『サッカー批評77』(双葉社)に掲載されたものです)
インタビュー・文 上野直彦
写真/渡辺航滋
日本サッカー界に衝撃が走った。2015年9月17日、デットマール・クラマー氏の訃報が伝えられたのだ。「日本サッカーの父」と呼ばれ、その教えがなければ、後の日本サッカーの成長はなかったといわれるほどの存在。「父」が遺した教訓には、今なお日本サッカー界が胸に刻むべき深いメッセージが込められていた。
スピード、スキル、センス
鋭い眼光、ピンと伸びた背筋、眉間のシワは意志の強さを感じさせる。なによりそのオーラはまわりを圧倒していた。デットマール・クラマー氏、いわずと知れた“日本サッカーの父”である。その人が私の目の前に座っていました――。
2011年9月、日本サッカー協会の招待で来日していたクラマーさん。この日の場所となった記念の会場に、クラマーさんは早めに到着されていて、一番後ろの席に座られていました。
ただ、驚くことに皆、“日本のサッカーの父”に緊張しているのか、誰も話しかけない。あまりにもったいないと思い、私は面識はなかったのですが、思い切ってご挨拶してみました。
すると、クラマーさんは気さくに質問に応じて下さいました。恐縮したのが、握手はクラマーさんの方からだったことです。レジェンドである指導者はスポーツマンシップの塊でもありました。
同じ年の7月、日本サッカーは歴史に残る大偉業を達成していました。日本の女子サッカー代表チーム・なでしこジャパンがワールドカップカッ(W杯)で見事に優勝したのです。男子もいまだ成し遂げていない初の快挙で、アジア全域でも史上初めてのことです。