■1年目は「知恵比べ、技比べ」がテーマ

 1年半後の大会まで、13次にわたる国内強化合宿(千葉県の東京大学検見川グラウンドで行われた)と2回の欧州遠征、そして1回のアジアユース大会出場をこなした。現在ならJヴィレッジなどでの合宿となるだろうが、検見川の合宿所は大部屋にゴロ寝で、食事も豊かとはいえなかった。

 松本は1年目は「知恵比べ、技比べ」をテーマとし、技術と戦術の向上を目指した。当時の日本のサッカー選手は、世界の舞台で戦うのにすべてが不足していたが、なかでも止めること、蹴ることを中心としたボールを扱う技術と、攻守両面での戦術の未熟さが目立っていたからだ。そして強化2年目、1979年に入ると体力強化が大きなウェートを占めるようになる。

「2月から3月にかけて、1日おきに専門のトレーナーについて体づくりをした。1日4回、朝6時に起床してランニング、その後、午前と午後に練習をして、夜には体育館でトレーニングをした時期もあった。いま思えば相当無茶なこともした。代表チームで、ここまで徹底して体づくりをやったのは初めてのことだった」と、松本は振り返る。

「血の小便」という逸話が生まれたのはこのときである。あまりにトレーニングが厳しいため、何人かの選手の小便に血がまじったことがあったというのだ。

「それでも、ひとりの脱落者もいなかった。最初から説き続けてきた『日の丸をつけてプレーすること』の意味を、この頃にはみんなが理解して、誇りを持ってトレーニングに臨んでいてくれたからだと思う。全員がメニューをこなし、本当に強くなった」(松本)

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