■パス・サッカーの復活
そんな中で、1964年に東京でオリンピックが開催されることが決まった。
だが、日本代表は1960年のローマ・オリンピック予選で韓国に敗れてしまう。そこで、危機感をいだいた当時の日本蹴球協会は4年後の東京大会に向けて日本代表を強化するため、外国人指導者を招聘することになった。
サッカーの本場イングランド人を推す声が多かったようだが、日本蹴球協会の野津謙会長は西ドイツ・サッカー協会にコーチの派遣を要請する。
野津会長は戦前の日本を代表する名選手の一人であり、元選手として初めて協会会長に就任した人物だ。野津は医学博士で公衆衛生の専門家であり、戦前には「日独同志会」を結成するなどドイツとも親しい関係にあった。
野津会長から打診を受けた西ドイツ協会は、デットマール・クラマーを推薦した。クラマーは西ドイツ代表のゼップ・ヘルベルガー監督の下でアシスタントコーチを務めており、将来の西ドイツ代表監督候補の1人だった。
西ドイツ協会が、極東の島国からの要請にこれほど優秀なコーチを派遣してくれたというのはどれだけ感謝しても足りないことと言っていいだろう。
クラマーは代表合宿の時には日本式の旅館に泊まり込んで熱心に日本代表を指導した。基礎的な技術から積み上げて、時間をかけて日本代表を強化していった。その結果、かつてドイツ軍捕虜から手ほどきを受けたパス・サッカーという日本のスタイルが復活することになった。その成果が、1964年の東京オリンピックでのアルゼンチ戦の勝利。そして、さらに1968年のメキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得につながっていった。