後藤健生の「蹴球放浪記」連載第74回【W杯決勝スタジアム遍歴・1954年スイスW杯ベルンのシュタディオン・ヴァンクドルフ】(1)岡田武史監督「歴史的名言」の前日の画像
スイス・カップ決勝戦の入場券 提供/後藤健生
ユーゴスラビア戦のプレス用ADカードとパリでFIFA総会が開かれた際のプレス用ADカード
夏草や兵どもが夢の跡。松尾芭蕉が奥州平泉を訪れて奥州藤原氏の栄華を偲んで詠んだ著名な一句である。かたや我らが蹴球放浪家・後藤健生は、欧州スイスに第5回ワールドカップ決勝スタジアムを訪ね、その名も高き「ベルンの戦闘」に思いをはせた。だが有名になった言葉は、ワールドカップに初出場する日本代表を率いてスイスに来ていた岡田武史の口から、その翌日に発せられた――。

■ワールドカップ初出場だった日本代表チーム

 1954年のワールドカップはスイスで開かれました。ヨーロッパの中では第二次世界大戦による被害が少なかったスイスが選ばれたのです。スイス連邦は国際的に中立の義務を負う「永世中立国」となっており、第二次世界大戦でも中立を保ち続けました。そのため戦災を受けなかったのです。

 また、この年はFIFA創立50周年に当たっており、そのためFIFA本部があるスイスが選ばれたとも言われています。

 当時、ヨーロッパでは「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリーが圧倒的な強さを誇っていました。ハンガリーは1950年5月にオーストリアに敗れて以来4年間無敗で、1953年11月にはウェンブリーで行われた試合でイングランドを6対3という大差で破っていました。イングランドが、スコットランドなどの英国4協会以外の相手に初めてウェンブリーで敗れた試合でした。

 ハンガリーはスイス・ワールドカップでも全勝で決勝に進出しました。ところが、決勝戦では西ドイツに敗れてしまったのです。ハンガリーにとっては4年ぶりの敗戦でした。

 実は、両チームは1次リーグでも顔を合わせており、この時にはハンガリーが8対3で勝ったのですが、西ドイツは主力選手を休ませていました。また、この試合でハンガリーの攻撃のリーダー、プスカシュ・フェレンツは西ドイツのヴェルナー・リープリッヒのファウルで負傷してしまったのです(決勝には間に合いましたが)。

 この大会のレギュレーションは奇妙なもので、各グループ1位のチーム同士が準々決勝、準決勝を戦うことになっていたため、1位でグループリーグを突破したハンガリーは他のグループ首位のブラジル、ウルグアイと死闘を繰り広げ、とくにブラジル戦は試合終了後にロッカールームで大乱闘が起こるという大荒れの試合となりました(「ベルンの戦闘」と呼ばれています)。

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