カズといえば「11」番が代名詞。ところが1990年、ブラジルに渡ってサントスFCでプレーしていた三浦知良は、読売クラブ(現在の東京ヴェルディ)に移籍して、背番号「24」をつけて1年間、日本サッカーリーグでプレーすることになった。そして、これにがまんできない男がいた。1982年ワールドカップ・スペイン大会で、アルゼンチンのテクニシャンにして頭脳派としても知られるMFオズバルド・アルディレスは、フィールドプレーヤーながら背番号「1」をつけてプレーした——。サッカージャーナリスト・大住良之の「知れば知るほど奥深い」背番号の物語の完結編。
■「トータルフットボール」の背番号はアルファベット順
ポジションにとらわれず、選手がまるで渦巻きのように自在に動き回り、DFでも相手ゴールに迫り、FWでも最終ラインのカバーをするオランダの「トータルフットボール」。リヌス・ミケルス監督のその思想は、背番号にも表現された。このチームは、基本的に名字のアルファベット順に背番号をつけたのである。
その結果、FWのルート・ヘールスが1番をつけることになり、ヨングブロートは8番になった。1958年大会のブラジル代表で、ブラジル協会が選手リストに番号をつけ忘れたために正GKのジウマールが偶然3番にされたのとは、わけが違う。
ただ、何ごとにも「特例」はある。名字が「C」で始まるヨハン・クライフは、本来なら「G」で始まるヘールスより前、すなわち「1番」をつけることになるはずだったのだが、当然のように彼は自分自身のトレードマークである「14番」をつけた。そして残りの21選手には、アルファベット順で番号が割り振られたのである。
この大会では、アルゼンチンも基本的にアルファベット順の背番号にした。その結果、エースストライカーのルベン・ウーゴ・アジャラは2番をつけて攻撃の最前線に立った。ただし、アルゼンチンは1番、12番、21番の3つの番号はGKに(もちろんABC順に)割り振った。