「80万部は平気で売れた」
杉山 あっ、僕が最初に買ったのはコーチャーだ。3本線の「アディダス」っぽい感じで。
戸塚 そうですよね。知らないでしょ?
――知らなかったです。
戸塚 あとは「ボンバー」ですね。「アシックス」。
杉山 「ボンバー55(ゴーゴー)」。
戸塚 そうです。キャンバス地のやつがあってめちゃ軽いんですよ。値段も安くて。
――キャンパス地のスパイクですか?
杉山 そうそう、途中から先っぽに合成皮革が入ってるんだよね。
戸塚 そうです。合成皮革とキャンバス地が合体されたやつでしたね。それを都並(敏史)さんが履いている写真を『イレブン』で発見して、それで僕も履いてました。
杉山 そうそう。上手い選手も履いてたんだよね。
戸塚 練習用には良かったんですね。試合じゃ履かないですよ。都並さんが練習か何かで履いているのを発見して、「都並さん、ボンバー履いてるんだ」って思いましたね。
杉山 値段は3000円くらいだったかな。当時、安い方だったよね。
戸塚 そうです。すみませんね、くだらない話を(笑)。
――いえいえ、それぐらいお2人には日本のサッカー歴史がつまっています。
杉山 歴史じゃないけどね(笑)。
戸塚 そういえば、僕は杉山さんに「会社をやめろ」って散々言われてましたからね。
――『サッカーダイジェスト』編集部でバリバリやられてた頃にですか?
戸塚 はい。1996年のイングランドで行われたEUROに、僕はダイジェストの編集者として行ったわけですよ。それで、試合の現場でよくお会いするんですが、会うたびに「もうやめろよ、お前」ってよく言われてました。
杉山 というか、あの頃は、早くやめた方が勝ちだった。
戸塚 「いつまでやってんだ」って散々言われましたね。だから辞めたわけじゃないけど。その時はまだ機が熟してなかったので。金子さんは95年に辞めていたんですが。
杉山 散々ってわけでもないけどね(笑)。
戸塚 まあ、散々ってわけではないかもですが、まあ折に触れて。それで、杉山さんはそのとき、スポーツ・アイ(92年10月から06年3月まで放送していたスポーツ専門チャンネル)で解説やっていて、僕にスポーツ・アイの方を紹介してくれたんですよ。
杉山 ええ? そうだっけ。
戸塚 それで、解説もさせてもらって、少しずつお金貯めて、独立資金にしたんですよ。
杉山 すごいね。
――杉山さんがいたから、今の戸塚さんがある?
戸塚 ちょっと大げさに言えば(笑)。
杉山 何も面倒見てないし。でも、当時は会社を辞めた方が、少なくとも金銭的には良かったんですよ。今はね、あまり勧めませんけれど。
――媒体もたくさんあったからですかね。
戸塚 増えましたよね。でも、数年経ってなくなった媒体もありましたね。
杉山 あった、あった。
戸塚 Jリーグが始まって、媒体が一時的に増えたじゃないですか。92、3年ぐらいからバーンと。でも96年くらいになったら、なくなっちゃったのもけっこうあったと思います。
――『サッカーダイジェスト』はその頃、月刊誌から隔週に、そして週刊誌になりましたよね。
戸塚 『ダイジェスト』は、隔週は1年だけやって(92年)、93年のドーハ(1994年W杯アメリカ大会アジア最終予選)の直前から週刊なんですよ。その前、11か月くらいだけ隔週で、その前は月刊だった。進行がグチャグチャですよね。週刊なんてみんなやったことがないから、大変でしたね。たぶん1人ぐらいしか経験者はいなかったんじゃないかな。
――儲かったんですかね?
戸塚 どうなんですかね。
杉山 でも、儲かったのは、Jリーグが始まって10年ぐらいじゃない?
戸塚 俺がいる中で一番、景気が良かったのはやっぱジョホールバルのとき(1998年W杯フランス大会アジア最終予選)ですね。
杉山 あ~。
戸塚 あのときは異常でしたね。
杉山 僕はその頃、『Number』(文藝春秋社)でよく書いていたけど、初版が50何数万部で、増刷15万部かけて、それでもう、編集部にも1冊しか残っていない、という感じだったよね。僕も1冊もらったけど、それ以外ない。本当に“完売”ですよね。だからそれは、刷り部数を誤ったという感じだったみたいで。もっと最初から多く刷っていれば、返品率どれぐらいか知らないけど、100万部くらい刷っても、80万部くらいは平気で売れたでしょうね。しかも、広告もめちゃくちゃ入っていたから。あのときが最盛期でしょ。
50年以上前に第1号が誕生した日本のサッカー専門誌は、週刊化を経て、今やネット媒体にも変化していっている。日本サッカーとともに、サッカーメディアもどんな進化を見せていくのか――。
※ 杉山氏・戸塚氏対談は今後もアップ予定です。お楽しみに。