サッカー専門誌の裏側を明かす! スポーツライター杉山茂樹×戸塚啓“俺流激突”対談
杉山氏(左)と戸塚氏

 いまだ収まらないコロナ禍。東京五輪は来夏への延期となり、一部を除き世界各国のサッカーのリーグ戦、チャンピオンズリーグも延期や中止となるなど大きな影響が出ている。Jリーグも、2月25日に試合開催の延期が決まり、2節以降が開催されておらず、いまだ、リーグ再開の日付は決まっていない。
 まさに未曽有の事態を迎えたサッカー界にあって、報じる側のサッカーメディアも今、取材方法や記事作成の創意工夫、変革が求められている。
 今回、辛口の評論でおなじみの“サッカー番長”こと杉山茂樹氏と、サッカー日本代表取材数409試合を誇る戸塚啓氏、2人のベテランスポーツライターが、サッカーメディアの“歴史”を語ってくれた。


――かつてお2人は『サッカーダイジェスト』(日本スポーツ企画出版社発行。1978年、月刊誌として創刊。92年に隔週化、93年に週刊化。14年12月より月2回発行)で働いていましたよね。 

杉山  僕は『サッカーマガジン』(ベースボールマガジン社発行。66年、月刊誌として創刊。93年週刊化、13年より月刊化)で大学時代にずっとバイトをしていて、ダイジェストは卒業してから1年弱ぐらいかな。

戸塚  僕は杉山さんよりだいぶ後に、大卒で入りました。いわゆる定期採用をしている会社ではないので、たまたま先輩社員が辞めるタイミングで欠員募集で入れたんです。お2人辞めたタイミングで、六川(亨)さん(元『週刊サッカーダイジェスト』編集長、現在はサッカージャーナリストとして活躍中)、粕谷(秀樹)さん(『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長、現在はサッカージャーナリストとして活躍中)、金子(達仁)さん(『サッカーダイジェスト』編集部を経て、スポーツライター、ノンフィクション作家に。著書に『28年目のハーフタイム』、『決戦前夜』など)の3人しか編集部にいなくなってしまったので、学生で編集部でバイトをしていた僕ともう1人が、そのまま入れたんです。超偶然でした。

杉山  僕が編集部にいるときに、金子くんとか、夏の長野県菅平であった何かのサッカー大会のバイトに来てたよね?

戸塚  サークルの大会でしたっけ? 行った、行きましたね。

杉山  副審とか、やっていたよね。

戸塚  もともとは、富樫(洋一)さんに就職が決まっていなかった金子さんが相談して、編集部にバイトで潜り込めたんです。それで、金子さんがいたから、大学の後輩の僕も潜りこめたわけですよ。

――そうしたきっかけでサッカーメディアに入り、今の杉山さん、戸塚さんがいるんですね。

杉山  サッカー専門誌はすごく狭い世界なんですよ。今はインターネットで、ひょんなことから僕の記事とか読む人もいるかもしれないけど、昔は、雑誌なんて3万部ぐらいしか売れてなかったから。でもね、それでもすごかったんですよ。『サッカーマガジン』も多分、同じくらいかな。あと『イレブン』(日本スポーツ出版社)もあったから、みんな合わせると、7、8万部ぐらい。その後、『ストライカー』(学習研究社)もできて、当時はJリーグ開幕前だったけど、10万の市場だったんですよ。
だから、Jリーグの前の日本サッカー界をすごくダメな世界だと言う人いるけど、確かに良くはないけど、他のスポーツに比べたら、100倍マシだったと思いますよ。国立競技場だって、天皇杯でも3、4万人ぐらい入りましたから。

戸塚  確かに市場的にはそうですよね。たしかに、僕が入ったとき、たぶん部数は3万ぐらいだったんですよ。4万部刷って、たぶん3万ぐらいの仕上がりでしたか。

杉山  そうだよね。2万7000とかそんな感じだった。

戸塚  7割ぐらいの仕上がりだったんですかね。それに広告が入っていました。スポーツメーカーさんとのタイアップとか、毎月か少なくとも2か月に1回は入っていましたね。スポーツメーカーと、あとは地方のスポーツショップとかでしたね。

杉山  そうそう。僕は小、中学生のときに、『サッカーマガジン』のその広告タイアップページを元に、サッカーのウェア買いに行ったりしてましたね。なんと言うか、当時の僕らにとってはそれが“記事”だった。それが一番、欲しい情報だったんです(笑)。僕は静岡県の御殿場出身なんだけど、意外に東京は近くて。国立競技場にサッカー見に行くときに、ちょっとサッカーショップに寄ってこう、というときに、そのページを見て行きましたね。あと通販でもけっこう買ってましたよ。

戸塚  僕もひたすら見てました(笑)。見開きのカラーページに、スパイクが20~30個バーっと写ってるページを見ていましたね。

杉山  あれは、“物干し竿広告”っていうんですよ。1枚の写真広告なんだよね。スパイクの写真、1枚1枚製版していると高くなっちゃうからつなぎでやるんです。

戸塚  そういうんですか。本当、あれは飽きずに見られるページでしたね。中学生くらいのときなんて、それこそ活版ページはめんどうくさいから読まないで、カラーページだけ見て、あとは広告ページのスパイクをひたすら見ていましたね(笑)。

でも、お小遣いはないし、買えないわけです。それで、何か月か1回程度買えるチャンスをひたすら待つ、みたいな。あと、昔は「B&D」(関東に展開するスポーツ用品の専門店)じゃなかったですからね。ベストスポーツとプロショップ・ドゥーが合体して、B&Dになったんですよ。「KAMO」(全国に店舗を持つサッカー用品の専門店)が有名になるのは、僕らの世代からしたら、まだまだ先の話ですよ。

杉山  「KAMO」は当時、大したことなかったよね。「石井スポーツ」とかね、「グランプリスポーツ」とかの方が。

戸塚  「グランプリ」! そういえばこの前、名良橋(晃)さんが、「ヤンガー」(1961年に東京で生まれ、神戸で育ったフットボールブランド)のリュック背負っていたんです。「名良橋さん、懐かしいですね。どうしたんですか?」と聞いたら、「ヤンガーに知り合いがいてたまたま作ったので、“使いますか?”言われたんで、ああぜひぜひ」て言っていましたね。

杉山  ヤンガー! スパイクもあった。

戸塚  スパイクは「コーチャー」ですよね。「モンブランコーチャー」(1973年、ヤンヤンガーとモンブランの2社がタッグを組み、ウェアブランドはヤンガー、シューズブランドはモンブランとなった)。

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