最大の強みは示した1998年~2006年W杯

――1998年フランスW杯は、決勝直前のロナウドの発作というアクシデントで優勝を逃しました。

「私も決勝までいいチームだったと思う。セザール・サンパイオもボランチでヘディングシュート決めて、ロナウドもノリノリだった。あの決勝戦数時間前のロナウドの発作・・・本当に、あれが決勝戦でジダンにやられた原因だろう。発作がなかったら勝っていたかもしれない。サンパイオも言っていた。『ロナウドが死んでしまうんじゃないか、と心配で、ボールがロナウドにいくたび、ロナウドがボールを競ったりするたびに、怖くてたまらなかった』と。フランスの華麗なサッカーに負けたわけではなく、単にメンバーみんな心ここにあらず状態だったため、試合にならなかった――これは小さくない理由だと思う」

――それから4年後、2002年W杯では5回目の優勝を成し遂げました。モダンサッカーの到来とともにブラジル伝統の芸術サッカーがロナウド、リバウド、ロナウジーニョによって受け継がれたと思いますか?

「クラッキの顔ぶれを見ていれば、セレソン史上3本の指に入るチームだったと思う。ロベルト・カルロス、ロナウド、リバウド、ロナウジーニョとハイレベルでファンタスティックという言葉がふさわしい華麗なテクニックを持ったプレイヤーたちが揃った。ここに守護神マルコスが加わり、失点を防ぐことができた。南米予選では苦戦して、まさかの最終戦でベネズエラ相手の勝利で本選への切符を手に入れたのだが、いざ日韓W杯が始まったら、組織プレーもかみ合っていった。一番の難関はベルギー戦だったと思う。劣勢だった中、リバウドやロナウドの圧倒的な個の力が功を奏した。組織プレーは絶対に必要だが、このような圧倒的な個の力が試合を左右することになる。セレソンの最大の強みは、突出した選手の出現だ。それらの選手がいるのといないのとでは、チームの戦術も変わってくるのだから」

――2006年ドイツ大会では、1982年チームの「黄金のカルテット」になぞらえて「カルテット・マジコ」(魔法の4人組)と呼ばれたロナウジーニョ、ロナウド、カカ、アドリアーノによる攻撃陣が登場しました。実際には守備システムも機能して、5試合でわずか2失点。ですが、準々決勝でフランスに敗戦をしました。当時、日本代表監督として対戦もしたあなたの目には、「カルテット・マジコ」はどのように映りましたか?

「2006年W杯のカルテットと1982年W杯のカルテットの大きな違いは、練習量だと思う。1982年W杯で、私達がもっと一緒に練習する機会があったらと、残念に思う。だから両方のカルテットは全く別物だ。このW杯でのポイントは、当時バルセロナ所属で、世界最優秀選手賞に選ばれていたロナウジーニョの肩に全ての負担がかかったことだ。当時のセレソンのフィジカルコーチだったモラシー・サンターナと一緒に仕事をしたことがあるが、2006年W杯前の合宿で選手達のフィジカルコンディションがいかに悪かったかを話していた。一番の問題は体重管理ができていない選手が何人もいたこと。戦術以前に、彼らの体重を元に戻す特別メニューをしなければいけなかった、と。また、スイスでの合宿期間中、練習場を一般客に開放して練習を公開したことも問題だった。ざわざわと落ち着かない雰囲気の中、選手達にとって集中できない環境になってしまった。もちろん、そんな悪条件が重なってもタイトル候補として挙げられていたことには違いない。なんといっても、当時私が監督を務めていた日本代表を4−1で叩きのめしてくれたんだからね。パレイラ監督は日本戦に臨むのにロビーニョ、ロナウジーニョ、ロナウドにジュニーニョを投入し、戦術を変えて日本をつぶしてくれた。あれだけの選手を抱えているからこそできる監督の手腕発揮だったと思う。日本戦で見せたようなサッカーが続けば、優勝に手が届いただろう。しかし、ジダンのフランスは強かった。フランスを前に、ブラジルは大会から姿を消すことになった。ブラジルにはロナウジーニョがいたが、大会前からロナウジーニョ依存は大きく、負担が大きすぎたということだ」

※第3回に続く。

(この記事は2017年6月13日に発行された『サッカー批評86』(双葉社)に掲載されたものです)

筆者プロフィール/リオ市在住。スポーツジャーナリスト。35年のキャリアを持つ。ジーコとの親交は30年以上。ブラジル有数の新聞社の記者として、これまでにW杯、五輪などを取材し、またフリーランスとして本の編集作業、ラジオテレビの仕事もこなす。ブラジルで最も歴史と権威のあるサッカー雑誌“プラカール”の元記者。
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