――チェアマンを含め、幹部役員自らが動くということですね。

村井 今度、このチェアマン室はなくします。ワンフロアにする。専務や常務とは相部屋でよくて、僕は他の役員と一緒に大部屋に移ります。その方がディスカッションできますから。4月に組織改革をしますが今回の組織改革で、役員が自らが主要業務を担当することにしました。自らやるべきミッションは何かということを決めて、自ら中心となって押し進める。そういったところから意識改革を進めています。そのために高い給料をもらっている訳ですし、そのために権限があるわけです。スタジアム一つ造るのはものすごく大変なことなので、司令塔は役員がやるべき。そのかわり、日々のリーグ運営、例えば毎週の競技運営などといったことは全部思い切ってスタッフに権限移譲して、とにかくスピードアップして進めていきます。

木之本 とってもいいお話ですね。さらにいえば、今はサッカーをやっていたJリーガーがクラブの社長になっていますよね。

村井 今回の立命館大学とのヒューマンキャピタルに応募しているOBもいますよ。

木之本 それは今までなかったことなので、凄いことだなと。村井 野々村社長(札幌)、塚野社長(鳥取)、大倉社長(湘南)・・・逞しい人がどんどん育ち始めています。

木之本 久米さんも名古屋で、現場から叩き上げで社長に就任しました(4月16日時点)。私はいい方向に行くのではないかと期待しています。

村井 嬉しいですね。僕なんかよりも見識が深く、情報があり、意欲があり意思のある人はたくさんいるので、サッカー界は大丈夫ですよ。

※第5回に続く

(この記事は2015年5月9日に発行された『サッカー批評74』(双葉社)に掲載されたものです)

木之本興三
1949年1月8日、千葉県千葉市生まれ。県立千葉高から東京教育大学を経て古河電工に入社。大学時代は主将を務め、インカレなどで優勝して将来を嘱望されたが、26歳の時にグッドパスチャー症候群を発症し腎臓を摘出。引退後はJSL事務長、総務主事を務め、日本サッカーのプロ化に尽力した。1993年のJリーグ発足後は理事や関連会社の社長を兼務。2002年の日韓W杯では日本代表の団長を務めたが、大会後にバージャー病を発症し、両足を膝の上から切断する大手術を受けた。2003年にJリーグを退職後は㈱エス・シー・エス代表取締役、アブレイズ千葉SC代表を務めるなどサッカー界に貢献。2017年1月15日永眠。(※2020年4月追記)
村井 満
1959年8月2日、埼玉県川越市生まれ。県立浦和高時代はGKとして活躍し、早稲田大学を卒業後は日本リクルートセンター(現リクルート)に入社。2000年に人事担当の執行役員に就任。2004年に本社執行役員兼務でリクルートエイブリック(後のリクルートエージェント)代表取締役社長に就任し、2011年まで社長を務めた。2008年にJリーグ理事に選任。2014年1月31日に第5代Jリーグチェアマンに就任した。J1リーグの2ステージ+チャンピオンシップ制導入やJ1とJ2クラブの財政健全化を推し進めつつ、自らも積極的な営業から新規スポンサーを獲得してJリーグの経営立て直しと、多忙な日々を送っている。
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