後藤健生の「蹴球放浪記」第176回「国境を越えて“飛び地”に行ってみる」の巻(1)ウクライナで国境がはっきり見えていた時代の画像
バルセロナ五輪決勝戦のチケット 提供/後藤健生

 蹴球放浪家・後藤健生は、いくつもの国境を越えてきた。陸続きの大陸では気にすることもなくなるが、ヨーロッパにも忘れられない国境がある。1992年の五輪開催地バルセロナへ向かう途上で、その貴重な体験は待っていた。

■日本人にとって特別な体験

 周囲を海に囲まれている日本に住んでいると「国境を越える」という経験があまりできません。日本人が外国に行く時にはほとんど飛行機を利用するはずですし、昔だったら船の旅だったはずです。

 しかし、空港や港で入国検査を受けるのでは「国境を越えた」という実感はあまりありません。

 第2次世界大戦前に日本が朝鮮半島を植民地支配していた時代には朝鮮から中国(後に「満洲国」)に渡る時には陸上国境を越したはずですが、ほとんどの場合は列車に乗って鴨緑江か豆満江に架かる橋を渡ったはず。「歩いて渡る国境」ではありませんでした。

 日本領だった南樺太からロシア(ソビエト連邦)領の北樺太に渡る場合は「歩いて渡った」のでしょうが(明治神宮外苑には日露間の国境標識が残されています)、樺太で国境を越える人はそれほど多くはなかったことでしょう。

 だから、日本人にとって「歩いて国境を渡る」というのは特別な経験なのです。

「蹴球放浪記」にも、ソ連からポーランドに渡る時に軌道幅が違うので列車の台車を交換したとか、東ベルリンから地下鉄に乗って西ベルリンに入ったとか、香港から電車や船を使って中国本土に入ったとか、ペルーからボリビアに入る時に国境でワイロを要求されたとか、「陸上国境」を越える話がいくつも出てきました。

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